落ちていた寿司(スタイリスト私物)

洋服の事がほとんど。 Opinions are my own.

誰がアパレルを殺すのか、アパレルは集団自殺したか

久しぶりの更新になってしまった。四月から社会人になり、某不動産会社で商業系の不動産開発に携わっている。これと言った仕事はまだしていないが。

 

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最近買ったマルジェラのドライバーズニット


会社勤めをしていると、生活はまさに家とオフィスの往復になった。会社の寮は閑静な住宅街にあるし、会社もいわゆるオフィス街に存するので、生ものとしてのファッションに触れる時間が格段に短くなった。

自分が着るべき洋服もなんとなく掴める年頃になって、今は専ら電子媒体で気になるブランドのコレクションを追いながら、稼いだ給料で憧れていた物をワードローブに足していく日々で、洋服について頭を使って考える時間が少なくなった。

 

 

そんな中で、こんなツイートを見た。


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これについて、自分は久々に思うことが様々あった。


このツイートで語られている洋服の意味、かっこよさはまさに文字通りで、着飾ることの醍醐味は自己表現であったり、自分の哲学の体現であったりする。ファッションの持つアート的な側面だ。これはごもっともな意見である。

 

 

http://sushi0630.hatenablog.com/entry/2017/10/27/212755

[過去記事]現代においてより多くの人がファッションを楽しむには ユニクロ必要十分層とファッションフリークの間のクレバス


ところが、上の過去記事で書いたように、洋服にどっぷり浸かった人たちの洋服の楽しみ方は、しばしばそうでない人達のそれと異なる場合がある。


当ブログの持論に関しては、詳しくは記事を参照してほしいが、平たく言えば健全な範囲で洋服を嗜む人達はそもそも論として着飾ることに依る自己表現や哲学の表示を最終的な終着点としていない。
彼らが洋服を選ぶモチベーションとしているのは自らの恋愛対象からの"モテ"であったり、TPOから足を踏み外したくない、ダサい分類になりたくないと言ったような自己表現ではなく、他己満足や自己防衛を目指している次元である。


対して前述の通り、所謂ファッションの中の人は上記のような自己満足的な次元の中で服選びをしており、健全な範囲で洋服を楽しむ人達がいる次元を上掲ツイートのように"ダサい"と捉える場合がある。マズローの五段階欲求説に近いイメージだろうか。


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過去記事にも書いた通り、現実的にはこの2つの次元については上下の区別はなく、本来非常にフラットであるばすである、というのが自分の考えである。理由については下記で展開する通りだ。

 

上掲ツイートの内容のように、現代ではファッションに必要以上に気を使うことが"ダサい"と捉えられることが増えた。思想や言論の規制から人々が解放され、現代では社会ヒエラルキーや性的趣向についても過去に比べ大きく変化した。社会構造が多様化すると、ライフスタイルも同様に多様化した。軍服に代表される様な強烈なトップダウン構造だった服飾社会から解放された人々は、ライフスタイルの多様化によって着飾ること以外での自己表現の場を手に入れ始めている。


これはカルチャーの発信地であるストリートに目を向けても見て取れる。今のストリートでは、バレンシアガやヴェトモン、ゴーシャラブチンスキーやシュプリームレベルの価格帯に手を伸ばすファッションに熱心な若者も、ブランドが打ち出すお手本の様なスタイルを着こなし、同じブランドを着た仲間とつるんでいる光景をよく目にする。

良くも悪くもこれが今のトレンドだ。現代のトレンドを作る消費者としてのファッションフリークは、着飾ることでの自己表現を洋服を手に取ることの最終目標に設定していない。これは今の若者が思考停止しているわけではなく、彼らは彼らの哲学や生き様を表現する場を洋服以外のところで獲得しているのだと思う。

 

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若者はトレンド、ひいてはカルチャーの鏡だ。若者がカルチャーを作り、体現し、発信していく。その流れが過熱化すればトレンドになる。そしてそのトレンドをいち早く嗅ぎ取り、トレンドの加熱を後押ししていくのがインダストリーの使命であり、生き様である。

上で記した2つの次元が本来フラットである理由はここである。ファッションを享受するマジョリティの求めるアウトプットを、インダストリー、言い換えればファッションの中の人は彼らのいる次元と足並みをそろえて、同じ位置で考えていかないといけない。

ファッションを提供する側と享受する側、この2つの次元が並列でない限り、ファッションは"わけのわからない一部の人たちの内輪ノリ"として大衆から見放され、カルチャーとしてこれ以上の成長を遂げることはない様に思える。

 

 

にも関わらずファッションの中の人は哲学の表現やら自己表現やら、消費者が求めていないものばかりを押し付けてくる。

洋服に気を使うのがダサいのではなく、社会の変化から置いてきぼりにされた思想の押し付けに対して、現代人は拒絶反応を示している。そこに"ダサさ"を感じている。

ではなぜその2つの次元の間に軋轢が生まれるのか?それは"ファッションの中"側の人たちは、ファッションをアートとは捉えるものの、インダストリーとして捉えようとする努力を怠っている様に見える点が関係していると思う。

 

 

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最たる例がファッションエディターやアナリストの書く文章だ。


かなりトゲのある言い方になってしまうのを承知で言うが、この文章の意味を本気で理解できる人はこの世にどれくらいいるのだろうか。最早、書いている本人に対しても、理解した上で書いているのか?と懐疑的になってしまう。


ファッションの中の人が対外向けに書く文章はしばしば、こう言ったカタカナ語を含んだ理解不能に見える文としてネタにされてしまうが、自分は理解不能に見えるというよりも、実際にロジックが存在しない意味不明な文だと思う。

 

誤解を避けるために言えば、実際問題こう言ったアート批評の文は意味不明で問題ないのだ。ファッションのアート的側面だけを見れば、所謂自己満足的で、他人と自分の見解に差があるのは問題ないはずだ。だが問題はそれ以前の話で、現代の潮流の中ではファッションはアート的側面ではなく、インダストリー的側面をその表面として成立していると言える。消費者が求めているのがそういったものであるにも関わらず、ファッションの中の人はそれを無視してアート的側面を押し付け、それを理解できないことを"ダサい"としてしまう。そう言った時代錯誤感、ルサンチマンが"ダサい"のだ。

 

 

アートとして地位を確立できていないファッションが、アートとしての側面を強め確実なものにして行く為にアートの中でどういった意味合いを持つのか、もしくはこれから持ち得るのか、それを一般消費者に向けて語る人たちのスタンスが「わかる奴にはわかる」では、ファッションは一生意味不明なカルチャーのままだ。「わからない奴にもわかる」というスタンスで、消費者に寄り添った発信であるべきだと思う。

 

 

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自分はザラが好きではない。デザインの盗用を理由に多数のデザイナーから訴訟を受け、発展途上国の工場で多くの子供を低賃金で働かせているような会社は、ブランド以前に企業体として自分は全く共感をできない。それでも、ザラは売れている。

なぜ、人はそんな企業が作る服を手に取るのか。簡単に言えば需要に対して(あくまでアウトプットの形としてであり、プロセスは褒められたものではない)正しい供給を行なっているから、というだけの話だ。

 


インターネットが普及する以前は、自分の趣味や専攻を持つ人は、それに対して知見を深めるには活字を読んだり、専門家の話を聞くなどするしかなかったはずで、自然とある特定の分野にディープにならざるを得なかったはずである。

ところが、インターネットやその他媒体の普及が様々な身分の人が平等に様々な情報にアクセスすることを可能にした。現代のように趣味や専攻を持つが、それに対してディープであることが求められなくなった。

これはアパレル業界にも同じことが言える。CRITEOの調べによれば現代のファッションフリークたちのおおよそ27%が週一回の頻度でECサイトを閲覧している。(https://www.google.com/amp/s/netshop.impress.co.jp/node/4499%3famp)


彼らは実にインスタントにインターネットから情報を得、ストリートトレンドなどを理解する。多大な労力をかけることなく。

裏を返すと、多大な情熱がなくとも色々なブランドのことを知り、さまざまな洋服のデザインに触れることができる。
ただし、それはあくまで、インスタントに、である。そこにはなぜそのブランドを発見するに至ったのか、何故そのデザインに出会ったのかという背景はない。あくまでも上澄みの情報を得ているにすぎない。

再三言う通り、彼らが求めているのはブランドの哲学とか、自己表現の手段なんかではなく、合理的な回答なのだ。そういった意味では、ザラの方がよっぽど、消費者に寄り添った視点でアウトプットを出しているのかもしれない。

 

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だが、自分はこれがファッション、アパレルが進むべき正しい道だとは思わない。最初のツイートの内容のように、ファッションはアートとインダストリーの両側面を確立し、カルチャーの中でその存在を確固たるものとする価値があるものだと思う。

 

全ての人が等しくさまざまな情報にアクセスできる世の中は素晴らしい。だがアパレルはその波に安易に乗ってはいけない。自分の洋服を買うにあたって上澄みの情報しか持っていない消費者の目には、サンローランのデストロイジーンズとザラのスキニーパンツが同じものに見えているだろう。
生地が云々、というレベル感の話ではなく、彼らはサンローランのそれに一体どれほどのデザイナーのアイデアや経験が投影されているのか、そしてそれをザラがいかに容易く盗用しているのかを理解していない。結果として20分の1の値段でザラを手に取る。無知は罪と言うが、現代の洋服好き達はザラを手に取ることでサンローランが死んでいくことを理解していない。このままでは洋服好きが求める良質なデザインは枯渇するだろう。

 

 

ファッションは集団自殺しているように見えるが、実際はインダストリー的側面を強めたファストファッションを強者とした食物連鎖が起こっているだけだ。ファッションのアート的側面を捨てろという話ではない。この先より多くの人がファッションをカルチャーとして享受するために、いまファッションの楽しさをを理解できない人に、ファッションの本来持つ自己表現の場としての魅力や、各ブランド哲学などを、より寄り添ったアプローチで伝えることが必要とされているのではないか。