落ちていた寿司(スタイリスト私物)

洋服の事がほとんど。 Opinions are my own.

誰がアパレルを殺すのか、アパレルは集団自殺したか

久しぶりの更新になってしまった。四月から社会人になり、某不動産会社で商業系の不動産開発に携わっている。これと言った仕事はまだしていないが。

 

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最近買ったマルジェラのドライバーズニット


会社勤めをしていると、生活はまさに家とオフィスの往復になった。会社の寮は閑静な住宅街にあるし、会社もいわゆるオフィス街に存するので、生ものとしてのファッションに触れる時間が格段に短くなった。

自分が着るべき洋服もなんとなく掴める年頃になって、今は専ら電子媒体で気になるブランドのコレクションを追いながら、稼いだ給料で憧れていた物をワードローブに足していく日々で、洋服について頭を使って考える時間が少なくなった。

 

 

そんな中で、こんなツイートを見た。


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これについて、自分は久々に思うことが様々あった。


このツイートで語られている洋服の意味、かっこよさはまさに文字通りで、着飾ることの醍醐味は自己表現であったり、自分の哲学の体現であったりする。ファッションの持つアート的な側面だ。これはごもっともな意見である。

 

 

http://sushi0630.hatenablog.com/entry/2017/10/27/212755

[過去記事]現代においてより多くの人がファッションを楽しむには ユニクロ必要十分層とファッションフリークの間のクレバス


ところが、上の過去記事で書いたように、洋服にどっぷり浸かった人たちの洋服の楽しみ方は、しばしばそうでない人達のそれと異なる場合がある。


当ブログの持論に関しては、詳しくは記事を参照してほしいが、平たく言えば健全な範囲で洋服を嗜む人達はそもそも論として着飾ることに依る自己表現や哲学の表示を最終的な終着点としていない。
彼らが洋服を選ぶモチベーションとしているのは自らの恋愛対象からの"モテ"であったり、TPOから足を踏み外したくない、ダサい分類になりたくないと言ったような自己表現ではなく、他己満足や自己防衛を目指している次元である。


対して前述の通り、所謂ファッションの中の人は上記のような自己満足的な次元の中で服選びをしており、健全な範囲で洋服を楽しむ人達がいる次元を上掲ツイートのように"ダサい"と捉える場合がある。マズローの五段階欲求説に近いイメージだろうか。


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過去記事にも書いた通り、現実的にはこの2つの次元については上下の区別はなく、本来非常にフラットであるばすである、というのが自分の考えである。理由については下記で展開する通りだ。

 

上掲ツイートの内容のように、現代ではファッションに必要以上に気を使うことが"ダサい"と捉えられることが増えた。思想や言論の規制から人々が解放され、現代では社会ヒエラルキーや性的趣向についても過去に比べ大きく変化した。社会構造が多様化すると、ライフスタイルも同様に多様化した。軍服に代表される様な強烈なトップダウン構造だった服飾社会から解放された人々は、ライフスタイルの多様化によって着飾ること以外での自己表現の場を手に入れ始めている。


これはカルチャーの発信地であるストリートに目を向けても見て取れる。今のストリートでは、バレンシアガやヴェトモン、ゴーシャラブチンスキーやシュプリームレベルの価格帯に手を伸ばすファッションに熱心な若者も、ブランドが打ち出すお手本の様なスタイルを着こなし、同じブランドを着た仲間とつるんでいる光景をよく目にする。

良くも悪くもこれが今のトレンドだ。現代のトレンドを作る消費者としてのファッションフリークは、着飾ることでの自己表現を洋服を手に取ることの最終目標に設定していない。これは今の若者が思考停止しているわけではなく、彼らは彼らの哲学や生き様を表現する場を洋服以外のところで獲得しているのだと思う。

 

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若者はトレンド、ひいてはカルチャーの鏡だ。若者がカルチャーを作り、体現し、発信していく。その流れが過熱化すればトレンドになる。そしてそのトレンドをいち早く嗅ぎ取り、トレンドの加熱を後押ししていくのがインダストリーの使命であり、生き様である。

上で記した2つの次元が本来フラットである理由はここである。ファッションを享受するマジョリティの求めるアウトプットを、インダストリー、言い換えればファッションの中の人は彼らのいる次元と足並みをそろえて、同じ位置で考えていかないといけない。

ファッションを提供する側と享受する側、この2つの次元が並列でない限り、ファッションは"わけのわからない一部の人たちの内輪ノリ"として大衆から見放され、カルチャーとしてこれ以上の成長を遂げることはない様に思える。

 

 

にも関わらずファッションの中の人は哲学の表現やら自己表現やら、消費者が求めていないものばかりを押し付けてくる。

洋服に気を使うのがダサいのではなく、社会の変化から置いてきぼりにされた思想の押し付けに対して、現代人は拒絶反応を示している。そこに"ダサさ"を感じている。

ではなぜその2つの次元の間に軋轢が生まれるのか?それは"ファッションの中"側の人たちは、ファッションをアートとは捉えるものの、インダストリーとして捉えようとする努力を怠っている様に見える点が関係していると思う。

 

 

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最たる例がファッションエディターやアナリストの書く文章だ。


かなりトゲのある言い方になってしまうのを承知で言うが、この文章の意味を本気で理解できる人はこの世にどれくらいいるのだろうか。最早、書いている本人に対しても、理解した上で書いているのか?と懐疑的になってしまう。


ファッションの中の人が対外向けに書く文章はしばしば、こう言ったカタカナ語を含んだ理解不能に見える文としてネタにされてしまうが、自分は理解不能に見えるというよりも、実際にロジックが存在しない意味不明な文だと思う。

 

誤解を避けるために言えば、実際問題こう言ったアート批評の文は意味不明で問題ないのだ。ファッションのアート的側面だけを見れば、所謂自己満足的で、他人と自分の見解に差があるのは問題ないはずだ。だが問題はそれ以前の話で、現代の潮流の中ではファッションはアート的側面ではなく、インダストリー的側面をその表面として成立していると言える。消費者が求めているのがそういったものであるにも関わらず、ファッションの中の人はそれを無視してアート的側面を押し付け、それを理解できないことを"ダサい"としてしまう。そう言った時代錯誤感、ルサンチマンが"ダサい"のだ。

 

 

アートとして地位を確立できていないファッションが、アートとしての側面を強め確実なものにして行く為にアートの中でどういった意味合いを持つのか、もしくはこれから持ち得るのか、それを一般消費者に向けて語る人たちのスタンスが「わかる奴にはわかる」では、ファッションは一生意味不明なカルチャーのままだ。「わからない奴にもわかる」というスタンスで、消費者に寄り添った発信であるべきだと思う。

 

 

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自分はザラが好きではない。デザインの盗用を理由に多数のデザイナーから訴訟を受け、発展途上国の工場で多くの子供を低賃金で働かせているような会社は、ブランド以前に企業体として自分は全く共感をできない。それでも、ザラは売れている。

なぜ、人はそんな企業が作る服を手に取るのか。簡単に言えば需要に対して(あくまでアウトプットの形としてであり、プロセスは褒められたものではない)正しい供給を行なっているから、というだけの話だ。

 


インターネットが普及する以前は、自分の趣味や専攻を持つ人は、それに対して知見を深めるには活字を読んだり、専門家の話を聞くなどするしかなかったはずで、自然とある特定の分野にディープにならざるを得なかったはずである。

ところが、インターネットやその他媒体の普及が様々な身分の人が平等に様々な情報にアクセスすることを可能にした。現代のように趣味や専攻を持つが、それに対してディープであることが求められなくなった。

これはアパレル業界にも同じことが言える。CRITEOの調べによれば現代のファッションフリークたちのおおよそ27%が週一回の頻度でECサイトを閲覧している。(https://www.google.com/amp/s/netshop.impress.co.jp/node/4499%3famp)


彼らは実にインスタントにインターネットから情報を得、ストリートトレンドなどを理解する。多大な労力をかけることなく。

裏を返すと、多大な情熱がなくとも色々なブランドのことを知り、さまざまな洋服のデザインに触れることができる。
ただし、それはあくまで、インスタントに、である。そこにはなぜそのブランドを発見するに至ったのか、何故そのデザインに出会ったのかという背景はない。あくまでも上澄みの情報を得ているにすぎない。

再三言う通り、彼らが求めているのはブランドの哲学とか、自己表現の手段なんかではなく、合理的な回答なのだ。そういった意味では、ザラの方がよっぽど、消費者に寄り添った視点でアウトプットを出しているのかもしれない。

 

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だが、自分はこれがファッション、アパレルが進むべき正しい道だとは思わない。最初のツイートの内容のように、ファッションはアートとインダストリーの両側面を確立し、カルチャーの中でその存在を確固たるものとする価値があるものだと思う。

 

全ての人が等しくさまざまな情報にアクセスできる世の中は素晴らしい。だがアパレルはその波に安易に乗ってはいけない。自分の洋服を買うにあたって上澄みの情報しか持っていない消費者の目には、サンローランのデストロイジーンズとザラのスキニーパンツが同じものに見えているだろう。
生地が云々、というレベル感の話ではなく、彼らはサンローランのそれに一体どれほどのデザイナーのアイデアや経験が投影されているのか、そしてそれをザラがいかに容易く盗用しているのかを理解していない。結果として20分の1の値段でザラを手に取る。無知は罪と言うが、現代の洋服好き達はザラを手に取ることでサンローランが死んでいくことを理解していない。このままでは洋服好きが求める良質なデザインは枯渇するだろう。

 

 

ファッションは集団自殺しているように見えるが、実際はインダストリー的側面を強めたファストファッションを強者とした食物連鎖が起こっているだけだ。ファッションのアート的側面を捨てろという話ではない。この先より多くの人がファッションをカルチャーとして享受するために、いまファッションの楽しさをを理解できない人に、ファッションの本来持つ自己表現の場としての魅力や、各ブランド哲学などを、より寄り添ったアプローチで伝えることが必要とされているのではないか。

 

マルジェラは死んだ

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これは最新のコレクションから発表されたマルジェラの新作スニーカーの写真だ。

 


思わずこのインスタグラムの投稿に自分は「disappointed(失望した)」とコメントをした。アンチモードを掲げ、常にファッションとは何か?という洋服好きに投げかけられる答えのない永遠の問いに最も自分が共感できる答えを提供し続けてくれたマルジェラから、こんなスニーカーが発表されることは耐え難いことだった。

 

バレンシアガが発表したトリプルSを筆頭に、現在のトレンドのメインストリームではこういったボリュームのあるダサかっこいい(?)スニーカーが席巻している。トリプルSに関して言えばネット上で1日一回は見かけるレベルでスナップなどに取り上げられているし、プラダやヴィトンなど名だたるブランドもこぞって二番煎じを生産している。

 

 

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巷でこのタイプのスニーカーが流行っている事に関しては正直なんとも思ってないし、ラフ・シモンズのozweegoに関して言えば購入をかつて検討していた程だ。

ただし、マルジェラからこんなスニーカーが発表されるとなれば話は別だ。かつてアンチモードの名の下にトレンドに中指を立て続けていたマルジェラが、トレンドのメインストリームを創り出すのならまだしも、トレンドの後追いをし始めた事実は残念でならない。

 

 

今回はそんなここ最近のマルジェラへの愚痴とも言える事を吐き出したい。見苦しい自己満足の文かもしれないが。

 

 

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マルタン・マルジェラがマルジェラを去ったと言われる2008年から7年、2015年にジョン・ガリアーノがクリエイティブディレクターに就任した。

 

これはファッションブランドとしては当然の新陳代謝である。マルジェラがアンチモードを掲げたクリエイションでファッションシーンの中でも特異な存在になったとは言え、ディレクターの移籍などトレンドの中を生きる所謂ナマモノとしてのファッションブランドは本質的な部分の芯を除いた要素は常に変化させ続ける必要がある。

 

 

マルタンが2008年にマルジェラを去って以降、マルジェラのクリエイションはマルジェラの陰を落とすデザインチームによって行われてきた。これはマルタンが在籍していた2008年以前からマルジェラで取られていた体制であり、マルタンがFAXなどでインタビューに応じる際の一人称が必ず「we」であるのもここに由来するだろう。

 

 

コレクターの間ではマルタンが直接手掛けた2008年以前のアイテムが神格化されているが、2009年から2014年までに発表されたコレクションやアイテムはマルジェラのデザインチームがマルタンの息を間接的に吹きかける様にデザインされていたように自分は感じる。

事実ガリアーノの就任までの間ヘッドディレクターを雇わずにクリエイションを行なっていた点において、「メゾン・マルタン・マルジェラはメゾン・マルタン・マルジェラであり続ける」という方針のもと経営が行われていたのではないかと思う。

 

 

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ガリアーノがマルジェラのクリエィティブディレクターに就任する、という話を聞いた時、自分はとても悲しい気分になったというのが正直なところだった。本来、自分はファッションというカルチャー、もとい産業においてなるべくフラットな視点を持って考察したいと考えているし、それが正直な気持ちだ。最近で言えばエディがセリーヌに移籍する話を聞いた時も、自分はファービー・ファイロのファンでもあるので名残惜しくはあったが、サンローランというビッグメゾンを復活に導いたエディ・スリマンの新たなキャリアに心からワクワクした。コンスエロ・カスティリオーニのマルニも今でも思いを馳せる事があるが、現在のマルニも嫌いじゃない。

 

ただ、マルタンに関しては違った。このファッションインダストリーの中でも唯一と言っても過言ではないメゾン・マルタン・マルジェラの匿名性が失われてしまうかもしれないということに、いちファンとして言い知れない遺憾の意を感じた。

 

 

 

ジョン・ガリアーノは偉大なデザイナーだ。セントラルセントマーチンズを首席で卒業し、低迷期にあったディオールオートクチュールを商業的に成功させた。同ブランドのヘッドディレクターとして君臨し、当時オムを手がけていたエディ・スリマンと共にディオールのブランドとしての地位を揺るぎないものにした。その後、パリでのプライベート時のユダヤ人に対する差別的発言により炎上、退任に追い込まれた。ディオールのディレクターとしてのガリアーノの幕引きには、圧倒的な影響力を持つガリアーノの首を穏便に切るために経営陣が仕掛けたでっち上げなど様々な憶測が飛び交っているが、真偽の程は定かではない。(ガリアーノの後任がラフ・シモンズであったことは個人的には喜ばしいことではあった。)

 

 

ガリアーノのデザインはセクシーで、寸劇の様な世界観だ。デビュー当時の80年代後半から90年代、モードではコムデギャルソンやヨウジヤマモトがパリで地位を得、ジルサンダーが評価され始めるミニマリズムの黎明期であった。そんな中で打ち出されるガリアーノのデザインはかなり目立ったはずだ。(年齢の関係上、当時のことは自分は実際にはわからないが)

 

 

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そんなファッションシーンの一時代を築いたガリアーノアノニマスなマルジェラを手がけるということは自分にとっては合理的な選択に思えなかった。これは多くのマルジェラファンが思ったことではないかと思う。

 

マルタンがマルジェラを去ることになった理由は、マルジェラの親会社であるオンリーザブレイブ社の商業主義的経営にあったと言われている。この背景を考えるとガリアーノのマルジェラ就任は、マルタンが去った後もデザインチームが守り続けていた「マルジェラをマルジェラたらしめる要素」を完全に掌握し、親会社の経営方針に従わせるための仕掛けであったのではないかと考えてしまう。

ガリアーノの就任の報道も、ガリアーノ本人のディオール退任の経緯も相まってかなりセンセーショナルに行われていたように思えるし、言葉は悪いかもしれないが話題作りの為だったのかもしれない。もしそうだとすれば、マルジェラにおいてその様な事が行われてしまった事実について自分は心から残念である。

 

 

 

自分がこの記事を書くに至った経緯には、マルジェラの最新のコレクションがある。少し前にツイッターでも呟いたが、マルジェラ18ssと19awはもはやペンキを被ったジョン・ガリアーノであった。前述した通り、ブランドのデザイナー交代劇は、個人的な感情抜きにしていえば本来なら悲しむ事であってはならないと思う。自分も本心では悲しい気持ちを抱きながらも、自分を洋服の魅力に引き込んでくれたマルジェラの進退を見守りたかったし、最初はそうしていた。だけどもうあんまりだ。

 

 

メゾン・マルタン・マルジェラがメゾン・マルジェラになって以来、もうマルジェラのアクセサリーの半分は真鍮ではなくシルバーで作られている。アウターの襟元にもいやらしく仕付け糸が施されている。ペンキを塗りたくったタビブーツが発表された。マルジェラジャパンの設立が発表された。チャイナマーケットへの参入が示唆された。マッキントッシュとのコラボレーションが発表された。極め付けの冒頭のスニーカーである。2014年まで辛うじて生きていたマルタン・マルジェラの影は、オンリーザブレイブ社によって消しさられてしまった。マルジェラは死んだのだ。

 

 

ガリアーノの功績を見れば、マルジェラというビッグメゾンへの移籍は何ら疑問ではない。ファッションインダストリーの中というマクロの枠組みで捉えれば、マルジェラといういちブランドにもようやく変化の時がきたのかもしれない。しかし、マルジェラというブランドが持つ唯一無二とも言える特異性とアノニマスさを欠くことは、マクロの枠組みで言っても大きな損失に思えてならない。

 


手遅れかどうかはわからない。ただ、いちマルジェラファンとして純粋な気持ちを書くとすれば、これ以上マルジェラからマルタンを感じられなくなるのは寂しくて苦しくててたまらないのだ。

若者は古着を買った方がいい

 

 

ある日復刻版のlevis 506xx1stを着ていたとき、やっぱり復刻版じゃなくて本物が欲しいな、という話をしたら別に復刻版でいいじゃん、と言われた。ヴィンテージって何がいいの?汚いじゃん、とも言われた。

 

 

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今はもう手放したのでいい写真がなかった。ジャケットはlevis506xx、チノパンはTraditional Weatherwear、シューズはトリッカーズ。

 

自分はバイヤーのような知識こそないけれど、古着がまあまあ好きだし、古着を買うことはある程度合理性が担保されていると考えている。

 

今でこそ、そこまで古着に手を伸ばすことはなくなってしまったが、当記事では特に若者が古着を着た方がいい理由について書きたいと思う。

 

 

たしかに、前述の友人が言うことはごもっともで、たしかにヴィンテージなんか興味がない人からすればただの古い服である。

 

にも関わらず、古着とヴィンテージの枠組みを取っ払っても「生産からかなり経年していたり、もしくは一度誰かの手に渡って市場に戻ってきた」といった広義的な意味での古着を手に取る人は非常に多い。

 

 

前述の通り広義的な古着は大きく二つに分けることができ、一つは由緒があり、古くて価値の高いヴィンテージ。

もう一つは、過去に着用されたことのある服飾品が回収され、古着業者により分別や選別がなされて製品化され、再び市場に出回ったいわゆる古着。これにはブランド古着も含まれる。(出典はウィキペディア)

 

冒頭のように広義的な古着を買うのを避けることの合理性は理解されている。(汚い、古い、場合によっては新品より高い。etc.)

 

 

ではその点、それぞれ古着、ヴィンテージを買うことの魅力、合理性はどこにあるのだろうか。両方に言えること、それは端的にコストパフォーマンスだ。

 

 

いわゆる古着を買うことについての合理性を示すのは簡単で、これは単純にコストパフォーマンスが良い。ブランド価値の付かないセカンドハンドであれば、場所を探せば大量に安く仕入れることができる。

高級なブランド物の古着(ヴィンテージ価値の付かないものに限る)であれば、状態を考慮しても新品で買うよりかなり安く手に入るはずだ。

 

学生などのお金がなくてもファッションを楽しみたい人たちには非常にありがたい話で、単純に質の良し悪しを問わず膨大な量の洋服と触れ合うことができる。

 

自分は、この「たくさんの洋服と触れ合うこと」こそが若者がファッションセンスを培い自らのスタイルを確立する上で最も重要なことではないかと思う。

 

ユニクロファストファッションには(現状)もたらすことのできない、アクのある洋服を着こなし自分のパーソナリティの一部に溶かし込んで行くことによるスタイルの確立や、憧れのブランドの洋服を身に纏ったときの謂れもないような高揚感といったものを、若者は古着というシステムを利用することによって安価で、手軽に体感することができる。

 

こうした経験を通じて洋服やスタイルに関して成熟した観点を若者は培い、最終的な終着地点を目指して青春を駆け抜けて行く。あくまでベーシックを売り続けるユニクロや無印を買うことでは得られない教養がそこにはある。(最終的な着地点が無印やユニクロの人ももちろん存在するとは思うが。)

古着やセカンドハンドを通じて、若者は所謂「いい歳して何を着ていいかわからない大人」にならないための教養を身につけるのである。

 

憧れのラグジュアリーブランドや癖のあるデザイナーズブランドをプロパーで買うのは常識的に考えて学生には難しい話だと思う。そう考えると、古着やセカンドハンドのブランド物を買うことは、それに対して得られるリターンとしての上記のような教養をプロパー買いと同様に得られると考えれば非常にコストパフォーマンスは高いと言える。

 

 

 

ではヴィンテージについてはどうだろうか。

ヴィンテージの魅力については理解できない、という人がかなり多い。なんで古いのに新品より高いんだよ、、、というごもっともすぎる理由からである。

 

ヴィンテージの魅力はまさに「ロマン」にあると思う。厳しい気候を乗り越えるために北欧の軍隊が施したディテール、幾多の人の手に渡り、それぞれの生活がありありと蘇るようなダメージ、そういったロマンこそがヴィンテージの最大の魅力である。

 

冒頭でヴィンテージはコストパフォーマンスが高い、といった書き方をしたが、もっと正しく表現するとすれば最早、金以外にヴィンテージの持つ魅力を手に入れる術が無いのである。

 

ヴィンテージを買うということは時間の経過を買うということだと思う。

ヴィンテージ・デニムを例にとって言えば、1940年代に生産されたものがかっこいいと感じてしまえば、その70余年もの経年変化はその風合いを忠実に再現できる術はほぼ皆無である上、そもそも新品で買った1本のデニムを半世紀以上も履き続けていられるかと言われればかなり非現実的なことになってくる上に希少性も高くなってくる。

そういった観点から、ヴィンテージが高い値段になってしまうのは合理性があると考えられる。

 

 

これに付随して、自分が若者こそがヴィンテージを手に取るべきだと主張する理由だが、それはまだスタイルが成熟しきっていない若者は、ヴィンテージピースの持つ圧倒的な世界観にインスタントに染まることができる唯一の世代であるからだ。

 

ヴィンテージピースにはそれぞれ、現代の自分の手に渡ってくるまでに壮大なストーリーがある。

 

あるlevis501は1960年代のアメリカのとあるポップアーティストに愛用され、カラフルな絵の具が付着したものであるかもしれない。

ある英国産のニットはハンターに愛用され、独自に肩と肘にレザーパッチが施されているものかもしれない。

 

そういった自分とは全くかけ離れた誰かの生活、ストーリーが色濃く反映されている、それがヴィンテージピースである。これはラグジュアリーブランドなどには持てない魅力である。

 

自らのスタイル、世界観がまだ未成熟な若者はヴィンテージピースが持つこういった強烈な世界観を素直に、かつインスタントに吸収することができる。

ある程度感性が成熟してスタイルが確率してしまうと、最早ヴィンテージの世界観にどっぷりと浸かりヴィンテージしか似合わない大人か、自分が作り上げたスタイルがヴィンテージの強い世界観と喧嘩してしまう大人の二択しか残されていないように思える。

ヴィンテージの持つストーリーや世界観を、ある意味無垢な状態で享受し、過去のオーナーに想いを馳せつつ、ヴィンテージ以外のスタイルも同様に無垢に摘むことができるのは感性が未成熟な若者の特権と言える。

 

 

 

上記が自分が若者に古着を是非手にとって欲しいと考える理由だ。

 

自分のスタイルを確立する上で古着が教えてくれることは非常に多い。奇抜な古着を着まくっていた時期が黒歴史になったっていい。1人でも多くの若者が古着を手に取ることの合理性を理解し、多くの洋服を手にとって欲しい。その洋服たちが与えてくれる教訓は、若者たちを「ダサい大人」にならないように指南してくれるはずだ。若者よ、古着を着よう。(衛生的な観点から言ってクリーニングはしっかりとしよう。)

 

 

 

 

 

 

(上記で語ったように自分はヴィンテージがもつストーリー性や世界観が非常に好きなのですが、そう言った意味でsurr by lailaさんのミリタリーアイテムのセレクトには非常にフェティシズムを感じるわけですね。お店は常連さんが居座り居心地はあまり良くなかったですが…。)

 

 

ユニクロ & J.W. Andersonとは何だったのか


京都のユニクロでバイトしてる友達によると、少なくとも彼の働く店舗では当該コラボは空振りらしい。


今日、ユニクロに足を運んでこのコラボを見てきた自分としてはまあそんな感じだろうな、、、と思った。

と同時にまだ日本の消費者はまだユニクロでファッションを最大限に楽しむ段階に至って無いようなことに少し安堵した。


個人的な感想だが、自分は今回のユニクロ&アンダーソンのコラボは結果としては失敗に終わるような気がする。その理由は当コラボが狙った客層の市場が実は存在せず、ユニクロとアンダーソンがコラボすることによるシナジーの不発に終わる可能性が高いと感じたから。


でも、これは同時にユニクロとアンダーソンによるファッション次世代への挑戦でもあったように思う。


まずコラボアイテムを実際に手にとって見た感想から。

自分がいいな、と思ったのはボーダーのニットとストライプの入ったスラックス、それとダウン。


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ボーダーニットはユニクロ自慢のメリノが入っており、デザインもアンダーソンらしくていいと思った。ダウンとスラックスに関してはシルエットが良くて使い勝手がいい。ダウンは無地のものについてだが。


ただ、自分が思ったのはボーダーのニットはまだしもこれではコラボした意味があるのか?ということ。自分は結局購入には至らなかった。(友人はボーダーのニットを購入したそう)


そもそも今回のコラボが狙っていたマーケットがどこなのか?という話だが、これは「ユニクロでの買い物に"攻め"を求めている層」だったのではないか。


ユニクロが国民服になった、なんて声もあるが確かにシンクエージェントの調査によれば日本人のユニクロでの購入経験がある確率は約80%、年齢層も他のファッションブランドに比べて圧倒的にカバーしている範囲が広い。


さらに最近あちこちで聞くように、ユニクロの服のクオリティは確かにすごい。自分が特に驚いたのがミラノリブジャケット、セールとはいえあれが1990円はすごい。

周りのファッションフリークたちも合理的な判断の一つとしてユニクロを選択肢に自然に加えているし、今や年に何十万もファッションにお金をかける層も自然と手に取る消耗品としての洋服、それがユニクロである。


アンダーソンはここに目をつけた。ファッションの民主化を謳うアンダーソンは自身のインタビューでも、ユニクロとコラボすることによって、より手に取りやすい値段で自分のクリエイションを世の中の人に楽しんでもらいたいと語っていた。


安価で高クオリティを届けるユニクロが今を煌めくハイメゾンのデザイナーのアンダーソンと手をとること。これは確かにファッションの民主化を目指すにあたって理想的な構図であるように思える。ハイファッションを楽しむ層がユニクロでJ.W.アンダーソンを纏う高揚感を手に入れる、アンダーソンはそんな光景を目指していたはず。


しかし今日自分が実際に店舗で見た光景は違かった。魚柄のニットを触って見てはそのラムウールのごわつきに難色を示す人、チェック柄のダウンを手にとって鏡の前で首を傾げる人、手をつけられた様子もなく整然と並ぶダウントート、そんな光景だった。


理由は簡単で、ユニクロはファッションの民主化を目指す最善のチョイスだったが、そのユニクロですらまだ民主化を行うには力不足だったということ。


これは前述の友人が送ってくれた画像だが、店頭のマネキン。贔屓目に見てもこれはかっこよくないと思う。彼が言うにはユニクロの店舗の販促にはあんな攻めた服を売るノウハウはないとのこと。


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確かに、ユニクロはベーシックを売ってきたブランドであって、ファッションの最先端を切り開いてきたわけではない。店員がどう売っていいのかわからないのも一つの問題だと思うし、その背景があったからこそユニクロユーとイネスはそれなりに売れているんだろう。ベーシック×ルメールとベーシック×アンダーソンではどちらの方がユニクロのユーザーと相性がいいか一目瞭然だと思う。

結局、ユニクロのユーザーが多岐に渡るとはいえ、その人達はユニクロにベーシックで消耗品を求めてはいるが、洋服を買うことによって得られる高揚感まで求めていなかったということ。

それ故使いやすく、それなりデザインが良いものを求めて押し寄せたユニクロユーザーたちが、アンダーソンのデザインを前にして困惑してしまった。

結果として狙っていた「ユニクロにファッションを楽しむ高揚感を求めている層」は実は蜃気楼だった。


ただ、アンダーソンとユニクロは今回のコラボで残した功績もあると自分は思う。

それは前述した通り、ファッションの次世代はもうそこまで迫っているのか、と言う見えない問いに一石を投じたと言うこと。


今回自分が当該コラボが狙ったと仮定した「ユニクロにファッションを楽しむ高揚感を求めている層」は今は蜃気楼だけど、未来のマジョリティ層になれるポテンシャルがあるマーケットだと思う。アンダーソンとユニクロはその市場の大きさを今回確認したのではないか。


単に利益だけを求めたのであれば、モード好きな層が反応しそうなのはユニクロよりもzaraとかh&mだろう。にも関わらず今回アンダーソンがユニクロを選択した理由はやはりファッションの民主化を実現可能なのは現段階ではクオリティの担保的な面でもユニクロ以外に存在しないから。


それほどにアンダーソンは本気で向き合ったはずだ。実際、今回のアイテムにはブリティッシュな雰囲気のトレンチコートなどアクの強いと言う意味でアンダーソンらしいアイテムも存在したし、バックパックやオックスフォードシャツ、アウター類のボタンなど、ロゴが大胆にあしらわれていたものがあった。

ロゴについては現在のファッショントレンド真っ盛りのアプローチだと思う。現実的に考えて、大胆なロゴが好きな人達はそのロゴが持つブランド力に魅力を見出している部分があると思うから、ユニクロコラボという前提があってしまうとそのブランド力は半減してしまうと思う。


にも関わらずアンダーソンはチャレンジした。そういう現代のファッションフリーク達はユニクロにもそれを求めているのか、ユニクロにそういう魅力があるのかということを確認するために、自身のブランドイメージを傷つける可能性のあるアプローチをとった。


結果として、この投石はアウターやアイコニックなデザインの大物を求めている層はユニクロにはまだあまり存在しないという現代人の価値観を浮き彫りにした(日本の実店舗での反応しか見てないが)。


ユニクロがまだ国民服になっていないと安心した反面、アンダーソンがそういった実験を今回していたとしたら、未来のハイファッションシーンが一体どうなってしまうのか、と考えさせられてしまった、そんなコラボだった。

接客業はAIに取って代われないというのは本当か

今日、グッチでリングを見ていた。

店員さんが話しかけてきて「それ、三代目の○○さんも着けてるんですよ〜」と。


なんなんだその接客文句は、、、。


別に三代目J soul brothersが嫌いとかいうことでは一切ない。(別に好きでもないが)

店員の接客トークに非常に失望したというか、そんなことを言うために店頭に立ってるのかあなたは、と言う気持ちになった。


こちらは昨今ネットでも見れるものをわざわざ店頭にまできて眺めている。客の立場でこんなことを言うのは正直驕り高ぶっているとは思うが、そういった客が知りたいことはそういうことではない。


ましてやグッチの様なラグジュアリーブランドの販売員が顧客相手ではないにしても、来た客がそういうモチベーションで店に来ているという前提のもと前略の様なトークを展開しているとすれば、非常にレベルの低い接客じゃないだろうか。彼のコミュニケーション能力が若干変わったベクトルを向いてるだけなのか。


自分にはバイトながらセレクトショップで販売員をしていた経験がある。東北地方の小さなセレクトショップで、グッチの様なラグジュアリーな店ではなかったが、接客するにあたってなぜオンラインでも買えるものをわざわざ店頭に足を運んで見にくるのか、そういう人たちに対して自分が店員としてすべき事は何なのか考えることは必要だと思っていたし、そういう教育を受けた様に記憶している。

自分が客だったら店員にその程度のことは理解してほしいと感じているから。


いまファッションが全体的に下火にある現状で、販売員の教育が行き届いていないという議論はよくある とはいえ、トップメゾンの販売員があれでは、と流石に疑問を抱えてしまった、、、小うるさい客だ。こういう客は今をときめくグッチの様な17年度第一四半期で驚異の売り上げ前年比150%を達成するブランドでは門前払いなのだろうか。

(https://www.wwdjapan.com/412015)


ただ、こういうBtoCの末端問題は経営的な視点で言えば問題追及ををすれば経営組織の責任問題であるとか、業界全体の現状に根を求めることになってしまう。しかしその悪循環の存在を前提として分かった上で各社ができることって存在するのであって、事実上そういうことを徹底できてる店もあるとは思うのだ。少なくとも自分が働いたセレクトショップは個人的にはそういった配慮が行き届いていた様に思う。バイトではあったが、接客のことに関してはかなり厳しく指導を受けたし、店やブランドによってもちろん客層だや環境も変わってくると思うが売上のノルマも与えてもらって、社員と混じって順位づけもある程度にはシビアだった。


無論、販売は人の手によるものなので、接客の質に個人差が出るのは仕方がないことだと理解している。けれどもああいう接客をされたことは国内のファッション業界の下火感を感じられずにはいられなくて悲しくなった。

デザイナーがどんな服を作っているかとか、日本のトレンドがどう動いているかとか、ただそういうマクロレベルの問題のみによって日本のファッションが活力を失っているのではないと再度考えた出来事だった。そういう末端の問題の解決につなげるためにも上流問題の改善は早急に行われるべきなのは全くの正論だが。

例えば接客の質について言えば、金融業界の様に人工知能やテクノロジーによって削減・解決して品質を担保できる問題ではない(と信じている)から余計に難しい。


偉そうなことばかり呟いて、何か解決策があるわけでもない自分も何だか情けない気持ちになる。洋服は楽しいのになあ。

日本のアパレル産業が見習うべき総合商社のビジネス

日本での路面店や百貨店へのテナントの出店によって欧米での販売よりも高い利益をあげていたブランドの多くが日本での販売価格を下げはじめている。

この現状をいち早く嗅ぎ取り、中国の巨大コングロマリットと手を組んで中国とその周辺の発展途上国の生活の文化力向上にブランド誘致で食い込むのが伊藤忠商事。日本のアパレル産業各位は伊藤忠商事もとい総合商社が執り行う事業経営体制を見習うべきではないか。


近年、中国では産業力の爆発的向上で様々なブランドの直営店での購入が国内でも可能になった。

これまで中国人、アジア諸国の人々は日本国内では爆買いで知られるように、わざわざ日本や近隣の先進国に足を運んでコモディティを購入することが多かった。偽物が中国国内で多く出回るため、確実に本物を手に入れるのなら国内で本物か偽物か議論を紛糾させるよりも、旅行がてら日本にある各ブランドの旗艦店で購入した方がコストパフォーマンスが良かったからだ。こういった消費者行動はこれまでは中国国内でも裕福層に見られた。しかし、近年中国のGDPが爆発的に向上し、現在は世界二位である。こうした高度経済成長があると、世界の一流ブランドも中国を巨大市場として当然マークし始める。

海外直営店の出店に慎重だったマルジェラですらチャイナマーケット参入の可能性を明言し、中国人や他のアジア人が日本でブランド品を買う必要が無くなった。日本で高級服飾品が売れなくなった一つの要因である。


こういった現状の中、ただでさえ足が速いトレンドに大部分を左右されるファッション、アパレルという産業はやはり半分、いやそれ以上にビジネス色の強い経営を行う他ないと思う。それを先駆けてやっていたのがやはり川久保玲山本耀司だし、今で言えばデムナがそうだ。


特に日本のアパレル産業はバブルの感覚を未だに引きずっている。人々のモノ消費とコト消費の概念の追求がピークに達しブランド力という看板があるだけで何もしなくても高級ブランドが売れる時代、だが今はそうじゃないにも関わらず、日本のファッション産業はのらりくらりとしすぎている。


しかし、難しいのはファッションはやはり芸術的側面があるということ。過去や伝統を重んじる風潮は根強いし、エディのサンローランへの批判やそれに対する回答、ガリアーノとマルジェラを見ればそれは明らか。そういった意味でブランド経営にビジネス色を持ち込むのはブランドイメージの毀損に繋がりかねないのが難しいところ。


伊藤忠、もとい総合商社はそこが非常に長けている。商社という商品のブランドに自社の名前が色濃くのらない側面を生かして、ファッションブランド経営を通してあまりブランドに関わっている匂いを漂わせない。ポールスミスは有名だが、ランバンを伊藤忠OEMによって自社工場で生産してるとどれくらいの一般の人が知ってるだろうか。


もっとうまいのがやはりデムナ。

兄弟が経営面を支えていることをインタビューで積極的に公表する。そうすることで血縁関係のある人間というだけでデムナの世界観を損なうリスクを極小化しているように感じる。ビジネス的視点と文化的視点で今最も成功しているブランドは間違いなくヴェトモン。ゴーシャラブチンスキーも経営に関しては同じだ。


洋服を買うのがカッコ悪いことになりつつある現代を乗り切るためにはコーポレートの強化は避けられない。顧客に「どう買わせるか」という視点がないと日本を含めたハイカルチャー化した地域で成功するのは難しい。


日本に関して言えば、元気なブランドはパリやロンドンに出ていってしまう問題がある。そういった中で常に新しい芽を発見し続け、伸ばす。そういった振興ブランドの新陳代謝の向上が日本のファッションシーンを盛り上げる鍵だと思う。そういったことができるのは日本発の強いブランドだと思う。

商社を見習えと言っておいてなんだが、残念ながら商社はこれには向いていない。トレーディングと事業投資、経営といったビジネスモデル的にやはり小売部分とBtoCの強化については各社のコンビニエンスストアの経営を見てわかるように未だに課題が残る。バイヤーの育成の段階になると商社が日本の若手発掘的部分で強みを発揮できる時代はでもっともっと先になってしまうな。


何が言いたいかというと、日本のでかいブランドは余裕があれば日本のストリートとマーケットにも着眼して若手の発掘をして欲しいということ。ゴーシャなんか、川久保玲が発掘したっていう看板が、ブランド力の大半を占めてると思うから。




デムナ・ヴァサリアの壮大な皮肉

【ルック】「ヴェトモン」2017-18年秋冬パリ・コレクション

wwdjapan.com/374293

 

自分は理屈ぽい方なので、気になるランウェイのブランドがあるとああでもない、こうでもないと勝手に憶測を飛ばしてしまう。ファッションジャーナリストの真似事。

 

この2017awのヴェトモンのランウェイをみて抱いたのはヴェトモン難解過ぎるな、という感想。デムナはよく「普通じゃない普通を造る」とか言われる事があるが、このランウェイに関しては洋服のデザイン的な意味で言えば本当に良さがどこにあるのかわからない。

 

ヴェトモンとバレンシアガでのデムナの仕事は、コンセプト的な面について言えばこうもかと思うほどに違うように見えるが、深い根底の部分では共通点がある。

 

バレンシアガでもヴェトモンでも、ユニフォームや制服に近い外部からのパワーによる統一感、そしてその統一性の中に不快ともとれる違和感を付け足してくる。バレンシアガでのデビューランウェイでみせたパワーショルダーのように。

 

このランウェイはデムナの作るパラレルワールドにいるような感じがするけど、途中途中に「普通」っぽいのが来るから違和感を感じてるこっちが間違えているかのような錯覚に陥る。

この辺はもう本当、ニューヨークの適当な街並みを切り取ったような感じ

 

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けど途中に挟まれるこの非人間感というか、ここまで来ると世界観をあえて壊してるというか、世界観が存在しない世界観というか。

 

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ヴェトモンはランウェイの空気感が社会風刺的だと揶揄されることが多々ある。実際最近のランウェイでは父親の休日と題打ったコレクションを発表したり、上の写真のような町並みをただ切り取っただけのスタイリングのモデルを歩かせたりする。VOGUEのインタビューでもデムナはソ連で幼少期を過ごした背景から制服そのものが内包する意味やパワーについて語っている。

 

デムナが社会風刺的な意味合いをクリエイションに持たせているという意見には自分も賛成する。でも実は、デムナの皮肉はランウェイ上で視覚的に行われる簡易的なものなんかじゃなく、実際は8万のeast pacのコラボバックパックとか、13万の踵に文字入れただけのchurch'sのコラボを消費者が買うまでの流れ全てを含めてデムナの強烈な皮肉だと自分は思う。

 

デムナのヴェトモンの服は確かにディテールにも力が入っているのはわかるけど、それを踏まえた上でどデカイロゴを入れたり、節操がないほどに有名ブランドとコラボすることで「お前ら本当にファッションわかってるのか?この服の価値わかるか?」っていう強烈に皮肉で挑戦的な問いを消費者に投げ掛けている。

デムナ(とその兄弟)はファッションブランド経営において、現代で最も上手くやってる人物のうちの一人だと思う。コラボ戦略だってその優秀な経営方針の一部だ。それを含めてデムナは自身のクリエイションと販売を通してファッションという芸術性から切っても切り離せない文化に張り付く人たちに対して、冷たい程に資本主義的な手法でファンを形成していく。そういう皮肉だ。

 

ただ、もしデムナのクリエイションが消費者が買うまでのプロセスを含めたいまのファッショントレンドに対する壮大な皮肉だという自分の仮説が合っていたとしたら、デムナの作る難解なランウェイすらもメッセージなど最初からない「ランウェイを見て色々私見をいうファッション分析・俯瞰層」への皮肉かもしれない。

 

意外とデムナの服作りへは消費者的立場からは「よくわかんないです」っていう正直な感想が最適解なのかもしれない。